行きたい街から住みたい街へ!!


村上ひろふみ応援プロジェクト


もう、いてもたってもいられない!市民の手で本当の豊かさを取り戻し、持続可能で平和な社会をいま、ここからつくる!尾道市政にチャレンジします!

 

 


皆様のお陰で無事支援金額を達成いたしました。ありがとうございます!!


   現在の支援総額

 1,487,000円

目標金額:1,400,000

サポーター数:72

募集締め切り:2019/4/20



目次



自己紹介


 

はじめまして。

村上ひろふみです。

 

1974年生まれの44歳です。 尾道から車で15分の福山市神村町出身で尾道市に引っ越してきて17年になります。 旧市街の斜面地で空き家だった場所に妻と2歳と5歳になる息子、近所で拾ったネコと住んでいます。 そして、ゲストハウスを一緒に立ち上げたメンバーとそのパートナー、 連れのネコ1匹の合計6人と2匹の家族で生活しています。

 

 

 

 

 

 

ドイツ・ベルリンで僕の行き詰まった壁が崩壊した!

 

 

学生の頃から「やりたい事」「好きな事」がなかなか見つからず進路に悩み続け、なんとなく流されるように進学してきました。 学校を卒業するときになってやっと自分の人生を歩みたいと思うようになり、今からの20年間は「自分が興味のあること、面白いと感じたこと」のみをやろうと決心し、アルバイトで1年間お金を貯めて、ドイツに行くことにしました。

 

 

そこで衝撃的な体験をしました。 それは1999年、ベルリンの壁崩壊から10年目のことです。

 

 

ドイツに渡ってすぐにルームメイトが歓迎パーティーを開いてくれました。そこには、様々な人が集い、だれもが仕事、人生、夢、政治、これからするプロジェクトやアイディアについて、盛んに話し合っていました。見知らぬ人同士が集い、和気あいあいと語り合う場所なんて、日本ではほとんど経験することがなかった僕は、そういったパーティーが日常的に行われているヨーロッパの文化に衝撃を受けました。

そして、「なんて楽しいんだ!」と思いました。

 

 

幼少期からピアノを習ったり兄の影響で洋楽が好きだった僕は、ドイツでも音楽に関わって仕事ができたらいいなぁとぼんやりと考えていました。

ベルリンに住み始めて間もない頃、ホームパーティーで地元のミュージシャンに出会いました。音楽の話で盛り上がると、彼は「今度のライブで前座をしてくれないか」と誘ってきました。つまり、彼のライブでDJをして欲しいということでした。学生時代にバンドをしていたとは言え、プロとしての経験がまったくなく、ましてやDJなどほとんどしたことのない日本人の僕に、面白そうという理由だけで、舞台に立って欲しいというのです。これはすごくいいチャンスだと思い、二つ返事で引き受けました。

 

 

彼のライブでDJをしたところ、違うクラブのオーガナイザーが来ており、今度はその方からクラブDJのオファーをもらいました。

「ハウスをプレイすることはできるか?」と訊かれたので、「もちろん、大丈夫だ」と応えました。しかし、実は僕はこの時「ハウス」という音楽ジャンルもあまり知りませんでした。だけど、日本を出る前に面白そうなことは何でもやろうと決めていたので、「知らない」「できない」とは言えませんでした。そこで、近くのレコードショップに行って「ハウスってなに?」と訊きました。レコードショップの女性オーナーは「私がハウスってどんなものか教えてあげるわ」と家に招いてくれた上、僕にハウスのレコードを貸してくれたのです。なにも知らない日本人に商売道具のレコードを貸してくれるなんて、日本ではあり得ない!と思いました。これも僕にとっては衝撃的な出来事でした。

 

 

これをきっかけに、当時ドイツではまだ珍しかった日本から来たDJということで、オファーが来るようになりました。どこかでプレイすると今度は違うイベントからお呼びがかかったり、自分でデモテープを作ってクラブに売込みに行ったりすることでレギュラーDJもできるようになりました。「音楽に関わる仕事ができたらいいなぁ」と考えていた僕の夢は、たった数ヶ月で実現したのでした! 

 

 

 

 

そんなこんなで夢が叶ったのも、僕にとってはドイツ人のオープンな交友関係があってのことだと思います。日本では、友人の家に長期で泊めてもらうことはあまりありませんが、当時のドイツでは、それが当たり前の状況でした。ペンフレンドだったカップルもクラブで出会った大学生の3人も、あまり知らない僕を1ヶ月も無償で泊めてくれました。

 

 

向こうの人は、日本と違って誕生日パーティーを自分で開きます。そして、仲のいい友人や見知らぬ人も招待して、もてなすことを楽しみます。毎日のようにいろんな場所でそういった誕生日パーティーが開かれ、たくさんの見知らぬ人たちが集まり、新しい出会いがありました。そんな出会いや集いの中から、次々となにかが生み出されていました。クリエイティブな人々が集まり、それぞれの才能やスキルが掛け合わされて、どんどんおもしろいことが起こっていくその状況に、僕は衝撃と興奮を覚えました。

 

 

そんな魅力的で刺激的な毎日に感銘を受け、僕は自分でも日本でなにかできるんじゃないかと思うようになりました。日本では、大学を卒業すると就職以外の選択肢がないように思っていましたが、僕はドイツに渡ってそれが単なる思い込みだということを知りました。個人個人が持っている感性や才能をその友人や周囲の人間が活かせば、就職できなくても仕事は生み出せるし、日常はもっと楽しくなるということを体感させてもらいました。

 

 

ドイツに渡ってから約2年半後、僕は外国で培った経験と希望と自信を胸にようやく帰国することができました。 

 

 

 

 

 

 

尾道のあたたかい人情に導かれて

 

 

帰って間もない頃、仕事を始めようと思い、求人募集を見て応募したのが 尾道のとある広告会社でした。 面接に行って、応募した動機や自分のことを話したとき、社長さんは採用の話ではなく「君に向いている人を紹介しよう」と言いました。

 

 

そのまま車に乗せられ連れていかれたところでご紹介頂いたのは 、尾道ケーブルテレビで番組を作ったり、発明をしたりする面白い方でした。 広告会社の社長は「じゃあ彼の話を聞いてやってよ」と言うなり、帰ってしまいました。そんな体験が、尾道で働く始まりでした。

 

 

面白い!なんて街だ!直感でそう感じました。その後、その発明家の方のご紹介で尾道ケーブルテレビにお世話になる事になりました。 

 

 

 

 

 

 

空き家はじつは宝物だった

 

 

日本に帰って来てからも、平日は仕事をする中で1日の内の1分でも1時間でも自分の好きな事を考えてトライする、そんな延長線上にドイツでのあの刺激的な生活が再現されると信じていました。

 

 

ドイツの生活での実感から、自由な時間を持つために重要なことは、仕事をしてお金を稼いで時間を作ることではなく、いかに生活コストを抑えて自由な時間を作れるかということだと知りました。

 

 

それを可能にするのが、尾道で出会った山手に広がる空き家でした。 

 

 

 

 

 

 

クリエイターを数珠繋ぎする場づくり

 

 

幸運なことに、2階建ての空き家を1万円そこそこで借りることができました。その次に必要なのは、モチベーションを維持し、一緒に活動する仲間でした。ほとんどの人が孤独な活動に慣れていません。 切磋琢磨しながら自分たちの面白いと思うことにチャレンジする、そういった環境が必要だと思いました。

 

 

ベルリンでの体験を生かし、面白いことをする仲間を沢山集めるアトリエをスタートしました。 面白い人はさらに面白い人たちを惹きつけ、面白いことを生み出していきます。

 

 

しかし、そんな生活にも限界がありました。ほとんどの仲間が県外から来ており、 生活をする為にもお金が必要でした。 僕たちは持続的な活動ができる場所をつくることにしました。 

 

 

 

 

本当の豊かさや幸せとは何だろう?

 

 

自分の好きな事を追求していくことは簡単ですが、持続するのは簡単ではありません。 途中で時間的にも金銭的にも難しい場面が出てきます。 そんな時は、できるだけ難しいことをせず、本質的なことをやることが重要です。

 

 

 

 

  

人によって求める真理は違いますが、自分にとってドイツでの経験、小さい頃からずっと好きでこれからも死ぬまで譲れない真実とはなにか? 考えた結果導きだしたビジョンは、「人と共感し合いながら、一緒になにかをつくる」ことであり、「人に会うことが好き」だということでした。

 

 

「交流」と「発信」をテーマにした交流スペース「チャイサロンドラゴン」の誕生でした。 

 

 

 

 

 

 

お茶 × サイダーの発想が生み出すもの

 

 

日々「チャイサロンドラゴン」でいろんな人々と出会い、対話を重ね、そこから 数々のアイディアが実現し、生み出されました。

  ほとんど提供するものがなかった「チャイサロンドラゴン」の始まりとなった、 「何か飲み物があったら?」という会話から生まれた日本で初めての 緑茶炭酸飲料「チャイダー」。

  

 

 

 

 

「尾道の人は本当に自分の街が好きだね」という話からカタチになった シビックプライドを現す「I LOVE ONOMICHI」グッズのシリーズ。

 

 

 

 

 

 

そんなある日、出会ったのが現在の妻でした。 不安定でお金のない僕のことを面白い人と言って結婚してくれました。

 結婚が決まってから、「結婚式のお金がない」とお客さんとお店で話をしていたら、毎年4月に尾道港の開港を祝う「みなと祭り」というお祭りで「結婚物語」というイベントがあり、上手くいけば無料でできるという情報を教えてもらいました。 すぐさま応募したところ、運良く採用され結婚式を行うことができました。

 

 

 

 

 

 

尾道名物「リヤカーゴ」誕生!

 

 

そんな時に、Uターン・Iターンして来て出会った仲間と共に作ったのが 移動式屋台「リヤカーゴ」プロジェクトです。尾道の昔ながらの屋台「ばんより」さんをモチーフに現代版としてリメイクしました。瞬間的に公共空間にマルシェなど コミュニケーションスペースを作り出すプロジェクトです。

 

 

1人で路上で屋台をするのは勇気がいるけれど、みんなで渡れば怖くない!っていう感覚に似てます。(笑)

 

 

 

 

 

 

旅人も街に参加できる滞在型交流スペース誕生!

 

 2013年、そうこうしているうちに長男が生まれました。とてつもないスピードで成長する我が子を見ながら、 僕の思考はまた止まってしまいました。 どう育てる? 教育費は? 父親としてどんなことを伝えるべきなのか? 等々。

 

 

結果として導きだしたのは、「自分の生き方」や「チャレンジし続ける姿勢」を見せ、実際に一緒に時間を過ごすということでした。

 

 

また、コミュニティスペースを運営していると本当にいろんな人と出会うことになります。すべてではありませんが、今でも出会った人たちと過ごした時間やその時の興奮等、一つ一つ思い出すことがあります。

 

 

中でも、ある一人の青年との出会いが大きな転機となりました。 その彼は冒頭で紹介した同居人の1人であり、大阪からキックボードでやって来た青年でした。 彼とは人生観や政治の話を沢山しました。「お金も住むところもないけれど、なにか手伝えることがあればやります」という彼と一緒に立ち上げたのが「ゲストハウス ヤドカーリ」です。出会いの窓口を国内から海外に広げるというものでした。

 

 

 

 

 

立ち上げにはNPO法人空き家再生プロジェクトの方達にも関わっていただき、「パーリー建築」を立ち上げた宮原くんや観光客・地元の友人等多くの人に参加してもらうDIY方式でやりました。 世界にはいろんな考えや文化を持った人がいるので、アイデアもその数だけ増えます。 日本人だけでは思いつかない問題の解決方法なども沢山知ってる訳です。 

 

 


立ち上がることにしたきっかけ


 

 

父の癌宣告と2011年の東日本大震災

 

 

直近のきっかけではありませんが、ずっと重くのしかかっている思いがあります。

 

 

それは幸せに暮らしていた2011年、突然訪れた父の癌宣告と東日本大震災でした。 一瞬にして命を奪われ、生活が奪われる様子をニュースを通して観ました。

 

 

自分が同じ立場だったらどうするか? どう考え、感じるか? 自分は明日が普通に来ると思っているがそれは当たり前なのか? 自分は残された命をしっかり生きているか? など沢山の事を考えた出来事でした。 原発問題もあります。あれだけまだ処理できないことが分かっていながら、廃止の方向に舵をきれないこと。

 

 

その後に行われた選挙では一票がこれほど無力だと感じたことはありませんでした。直接被害を受けたわけでもない他国ですら原発を廃止する方向に舵を切ったにも関わらずです。

 

 

 

 

社会には悩み苦しんでいる人がたくさんいる

 


宿を始めるといろんな人が来ます。出会いは楽しくほとんどが良い思い出ですが、そうでないこともたまにはあります。
それは、遊びに来たことの話ではなく、彼らの普段の生活や仕事の話、なぜ尾道に来たのかという話題に移った時のことです。

 

 

かなり多くの人が現在の生活や仕事に満足しておらず、不満や不安、ストレスを抱えていて薬を服用している話もたまに聞きます。 せっかく尾道に引っ越して来ても社会構造や教育、価値観などはどこもほとんど一緒で抱えている問題も似ている事に気づきました。

 

 

そうなるともう自分たちのコミュニティだけうまくいっていれば良いという問題ではなくなってきます。無視できなくなくなってきたのです!

 

 

 

 

 

 

なぜ、今なのか?

 


僕には2歳と5歳の息子がいます。 日々彼らの将来を考えます。一緒にいることが1番。2番目は彼らを理解し、 どんな未来や環境を残せるか? 彼らのことだけではありません。彼らの友達もそのまた友達も友達の友達も。。。 僕たちは一体何ができるのでしょう? 何をやめるべきでしょう? 

 

 

先日ある映像を観ました。それはスウェーデンの環境保護活動家である15歳の少女グレタ・トゥーンベリさんによる緊急メッセージでした。

 


僕たち大人社会に対する失望を通り越した決別ともいえるメッセージです。そう!もう待ったなしなのです!

 

 

 

 

 

 

そして、なぜ、市政にチャレンジするのか? 

 

 

問題は一筋縄ではありません。環境・経済・平和といった大きな枠組みでの取り組みは、一国がどうにかできる訳ではなく、世界各国が共に知恵を出し合い、協力して初めて解決できる問題です。

 

 

しかし、アクションは一人一人が行わなければいけないのも事実です。いまこそ、人間の向かうべき方向をみんなで考える時ではないでしょうか。

 

 

同時に、問題は時間があまり残されていないということで、悠長にしている時間が無いという事実をまっすぐ受け止め、最大限に出来ることをやることです。

 

 

尾道は外から見れば、テレビや雑誌で取り上げられることも多く、お店も徐々に増え、観光面では上手くいっているように見えます。確かにそういう面はあります。

 

 

とはいえ、社会構造や社会全体の価値観は全くと言っていいほど変化していません。新しい価値観やビジョンを大々的に、すぐに提示できるのは残念ながら『行政』そのものです。

 

 

本当は一人一人がきちんと考え、価値観を持つのが好ましいですが、小さい頃から自分の意見を言わない社会では常にトップダウンが主流です。

 

 

 

僕は2002年から尾道で暮らしており、2005年から「チャイサロンドラゴン」を、2014年から「ゲストハウスヤドカーリ」を運営してきました。

 

 

この17年間、地元住民や移住者、観光客とさまざまな人と出会い、対話を重ねてきた結果、世界中の多くの友人が僕に知恵と経験を与えてくれたことは、僕にとってはかけがえのない財産であり、いまも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

そんな折、昨年尾道にも大雨による大規模な水害がありました。友人の家が崩壊寸前になったり、断水が一週間も続いたり、これまでの生活がいかに脆いかということを痛感させられました。同時に、災害が少なく住みやすい「尾道」を誇りにし、人々に伝えてきた僕にとって、それはとてもショッキングな出来事となりました。

 

 

観光を経済の中心に据えて人の流れが生まれていた「尾道」が、災害などで人の流れが止まってしまった「尾道」を経験し、本当にこのまま観光だけを頼りにしていていいのか、そういう思いがむくむくと湧き上がりました。

 

 

それから半年以上経った頃、所用で尾道から広島に向かう電車の中で、僕は自分の目を疑う光景を目の当たりにしました。川沿いの土手が崩れたままで、大きな石がごろごろと転がっており、山肌はブルーシートに覆われていました。水害の被害はいまだ完了しておらず愕然としました。

 

 

今後また同じような豪雨が来れば、更に大きな被害が出るのではないか、そう思うといてもたってもいられない気持ちになりました。

 その帰り道、僕は以前から漠然と考えていた「政治」の世界に足を踏み入れようと決意しました。自分の暮らす街「尾道」をより良くしたいという想いは以前からありましたので、いつかどこかのタイミングで市政にチャレンジしようと思っていましたが、2歳と5歳の子どもを抱えるいま、もはや躊躇している時間はなくなりました。
いま、このタイミングで抜本的な解決をしなければ後悔しても取り返しはつかないのです。

 

 

とはいえ、政治家としての経験がない僕にとって、なににチャレンジするかが問題でした。「国家は小さな問題を解決する為には大きすぎるし、大きな問題を解決する為には小さすぎる」とはよく言われることです。

 

 

災害復興や地域の課題はそれぞれの地域が即時的に解決すべきですが、環境破壊や世界経済等、解決策の分からない問題はそれぞれの地域で小規模にトライ&エラーを繰り返して、方向性を示すことも重要です。その為には、ある程度の権限を有し、特定の小さなまちを変革できる「市政」にダイレクトにチャレンジすることが、僕には最適解だったのです。

 

 

僕が目指すのは、主婦が政治に参画できる社会です。政治経験がなくても、子育てをしていても、人道的なビジョンがあるいわゆる普通の一般市民が政治に参加できないようなら、それは開かれた社会とは言えないのはないでしょうか。そういう政治的基盤がないような僕たち一般市民が市政に関われるような社会を実現する為にも、僕はその前例を作りたいと思っています。

 

 


村上ひろふみ応援プロジェクトを読んでくださったみなさまへ


 

 

行きたい街から住みたい街へ

 

 

多様化する問題を前にすべてを行政が担うことは難しくなっています。 市の目的は方向性をはっきりとさせることであり、「人」と「環境」を中心として持続可能な社会を目指して「経済」とのバランスをとりながら 「行きたい街から住みたい街へ」変化していけるよう取り組んでいきます。

 

 

これからの市政はトップダウンではなく、市民が中心となり、行政がそれをサポートするという構造が理想的だと思っています。 市役所では既存のルールに縛られることなく、困った人に対して「出来ない」ではなく 「どうやったら問題が解決するのか」に焦点を置いて、真摯な対応を心がけ お互いの壁を乗り越え、知恵を出し合い、専門家も交えながら根本的解決が出来るようビジョンを「人にやさしい社会」「行きたい街から住みたい街へ」にしました。 

 

 

応援のお願い

 

 

ポスターやチラシ、ポストカードなどの制作費(20万)、供託金(100万)、後援会運営費(10万)、交通費(10万の合計140万円を集めることにしました。

 

 


マニフェスト


以下はこれまでみなさんと対話した中で出てきたアイディアです! これらが実行されたならどこよりも過ごしやすい街ができあがるでしょう! そして次はみなさんの街です!僕たちは自分たちの街だけでなく世界中が良くなることを願い、目指していきます。 ご協力お願いいたします。 

 


皆さんの声


以下はこの活動中に出会った皆さんから提案されたアイデアです!まだまだ随時更新していきます。

因島】3/18(月)
 〜福祉〜

  • 福祉施設で問題が起こらないよう数字で判断せず、チェック基準をしっかり設定して欲しい
  • 福祉の現場の声を拾って欲しい、情報をもっと知って欲しい

職員の確保が難しくなっているのでなんとかできないか?介護職員の高齢化
・島内での職員確保が難しいので移住者が来やすい環境を作りたい
・ハローワークが島内にない、ハローワークのホームページが使いづらい
・夜勤手当を行政が支援(新潟などで広まりつつある)
・専門学校の学費が高い 
・学校などでも介護職へのネガティブ(稼げないなど)な助言が一部ある

〜その他〜

  • 災害後における行政の説明会が現実に即しておらず、島内独自の経験を行政が対策に生かせない
  • 地域で避難訓練を実施したくても行政がバックアップしてくれない
  • 認知症を防ぐためのスーパーマーケットでのスローレーンを導入して欲しい
  • 広報尾道、ホームページに市民の声を載せるページを作って欲しい
  • フリースケートやスケートボードなどの練習場所を確保して欲しい
  • がんばっている人をちゃんと取り上げて情報を流して欲しい